“チョイ悪”今昔

 先日、気のおけない高校時代の旧友3人で秋田在住の旧友を訪ね、2泊3日の修学旅行を楽しんだ。温泉宿ではあえて個室をとらず一部屋に泊まり、眠るまでしゃべったり、呑んだり。ドライブ中の車内を含め、取りとめもない話が多い中にも時々は本音を交えての楽しい時間だった。
 還暦も過ぎた年恰好になったが、会って話せば、大東高校時代のやんちゃ(チョイ悪)した思い出話は尽きることがない。当時は、世の中がおおらかな時代だったからか今と違って、高校生ともなれば随分と“ませて”おり、大人の自覚と責任が求められる代わりに、「 (未成年者であっても) 大人がすること」は大概が世間でも学校でも許された(担任のО先生は特にそうだった)。
 今思えば、そうした社会的な原体験が様々な局面での判断の尺度(基準)だったとつくづく思う。また、“チョイ悪”経験があってこそ、「社会にはやっていいこと、やってはいけないことがある」というモラルやけじめ、判断基準が身に付き、心に強く刻印されると考えている。
 今、学校や教育の現場では、少しの過失があっても責任を問われることが多くなった。それを恐れるが故、管理・統制型の教育になり、おおらかさを失い、少しでも“チョイ悪”の兆候があればそれを摘もうと目を光らせる。結果は“善悪の境界域の実体験を喪失”し、かえって道徳的規範などのふるまいが劣化した。地域社会でも然りだ。地域の人間関係や親戚付き合いなどの大人の社会に参画することで “正常な社会性”=社会人基礎力が身につくと思う。
 司馬遼太郎は「高貴なコドモ」というエッセイで「芸術や科学を成すものはこどもの心で、失ってはならないもの」と、その重要性を指摘している(「風塵抄」所収)。幼少青年期の実体験(原体験)は、こどもの豊かな感性と知性を育み固定させる重要な意味を持つ。「感性を磨けば人生が楽しくなる。知性を高めれば人生が豊かになる」と繰り返し提唱しているのはこのためだ。日本人が苦手だといわれるユーモアやいたずら心、茶目っけの素(もと)としても必要だ。
 参加がかなわなかった“規格品外メンバー”の何人かは電話参加の同窓会だったが、「元気な間にできるだけ会って呑もう。そして、お互いの葬儀の参列はやめ(無し)にしよう」ということで意見が一致した。団塊の世代以降の葬礼の考えは相当変わっていく気がする。
 「あまりにも効率主義、市場主義に偏した社会の是正のためには、ちょっと前の社会にもどすことが必要だ」との持論とは矛盾するようだが、今の葬礼の慣習、死生観には旧弊を感じ、見直しすべきと思う者がこれから多くなる気がする。家族葬の増加がその例だ。
 クラス55人の中で県内居住は3分の1にも満たないが、近々クラス全体の同窓会を企画し、“おしゃれで凛とした生活”を確認したいと考えている。旧友との再会に触発されての私事となった。お許しください。

(諒)


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