島根県の人口推移(余談) (副理事長 原仁志)

島根県の「人口ビジョン」(素案)が45年後に目指す47万人という人口は、過去に遡ればいつの時代の人口に相当するだろうか。そして、そのときの出雲、石見、隠岐のシェアはどうだったのだろうか。
島根県の人口は、江戸、明治、大正、昭和期前半(昭和30年まで)を通じ、大飢饉など特殊な要因による一部例外を除き一貫して増え続けてきた。データを遡っていくと、江戸時代中期の寛延3年(1750年)の473千人(出雲、石見、隠岐の合計)に行き着く。日本全体の人口が2600万人の時代だ(出所Wikipedia「江戸時代の日本の人口統計」)。全国に占めるシェアは1.8%。現在(0.6%)の3倍に当たる。そのときの出雲・石見の人口は、出雲235千人に対し、石見220千人(対出雲93.5%)。当時、石見は出雲とほぼ拮抗する人口を有していたのだ。さらにその6年後、宝暦6年(1756年)には出雲220千人、石見259千人と一時的に石見の人口が出雲を上回る状況も生じている。
その後、緩やかに全体の人口が増えていく中で出雲と石見の人口差は徐々に拡大していく。80年後の天保5年(1834年)には県全体の人口が60万人を突破するが、そのときの内訳は、出雲315千人、石見265千人(対出雲84.0%)。出雲の伸びよりは低いが、石見も確実に増えている。しかし、石高について見ると、出雲303千石に対し石見172千石と約倍半分の開きがあり、石見の厳しい藩財政や庶民生活の実態が窺われる。借財に苦しむ浜田藩が廻船問屋会津屋八衛門の密貿易を黙認し藩財政の再建を図ろうとしたのもちょうどこの頃だ。石高から窺える地形等の不利な条件が外の世界に目を向ける石見人気質を形づくっていったのかもしれない。
そして今、石見の人口は出雲の半分以下にまで縮小している。石見の人口がかつてのように出雲に伍した人口を維持できていれば、島根の姿も今とはずいぶん変わっていたことだろう。1750年と2060年の47万人。タイムマシンで過去と未来を行き来できればどのような光景が広がっているのだろうか。

ところで、今年は5年に一度の国勢調査の年にあたる。人口問題が大きくクローズアップされているタイミングでの調査であるが、それだけでなく、今回の調査においては、まず間違いなく島根県が全国に注目される点がある。島根県の人口はすでに昨年4月の時点で70万人を切っており、今回の国勢調査でも大台を下回ることはほぼ確実と思われる。そうなると、第1回の国勢調査があった大正9年(1920年)より人口が減った唯一の県ということになるのだ。「過疎」発祥の地である島根県がここでも全国の先陣を切るわけである。裏を返せば、大正9年当時の島根県の人口は全国36位(715千人)で、それだけ相対的に高い位置にあったということだ。 
そして40位台となったのが昭和40年(41位)。いわゆる「38豪雪」を経て過疎化が急速に進んだ時代だ。県人口がピークの昭和30年(929千人)から昭和40年(822千人)までの10年間に10万人を超える人口が減っているが、そのすべてが自然増を大幅に上回る社会減によるものだった。戦後の高度経済成長の陰で島根県のたどった厳しい道のりにあらためて思いを巡らす。

さて、国の「長期ビジョン」では、「2060年に1億人程度の人口を確保する」こととされている。ここで気になるのは、島根県が目指す2060年の47万人の全国における位置づけだ。全国シェア0.47%という存在は、果たして「県」たりうるのか。45年後に現行の都道府県制が維持されているか、心配すればきりがないが、一つ言えることは、前回の調査で鳥取県の全国シェアが0.46%であったこと。ちなみに、鳥取県の前回調査人口は589千人。内訳は東部240千人、中部109千人、西部240千人。見事なまでの地理的バランス、うらやましい限りだ。
島根県の社会減に話を戻す。高度経済成長期を経て、島根県の社会減はその時々の経済情勢に翻弄されながら今もなお続いている。まずは早急にこれをプラス基調に転じなければならない。ふるさと回帰の流れが全国に広がりつつある中、その糸口はすぐそこに漂っているはずだ。しっかりキャッチしよう。


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