コトバで社会をデザインする(理事長 藤原義光)

 「コトバで社会をデザインする」は社会の形態(またその概念)をコトバ(標語やスローガン、名づけ、ネーミング、キャッチコピーなど)で表現することを意味する。
過日、「半農半X」を提唱している塩見直紀さんの講演で聞いた。


「半農半X」は形態としては兼業農家と大差はないが、かつての「小規模農業では食えないから兼業」とは違い新しいライフスタイル(概念)が感じ取れる。そこがいい。
「里山資本主義」は、金銭主義や効率一辺倒の価値観に対するアンチテーゼ(対案)として田舎の資源活用を提唱し、強烈なインパクトがあった。こうした印象に残り、人の気持ちを動かすコトバは、社会の向かうべき方向を端的に表現している。
 私もコトバの力が社会を切り開くことを願っている一人だ。
「感性と知性を高める教育」、「ふるまい向上運動」、「田舎ツーリズム」、「参加することで地域を支援しよう」。みなそう思ってのフレーズだ。
 政府が掲げる「地方創生」も「一億総活躍社会」も羊頭狗肉にならず名実ともに社会をデザインするコトバになってほしいと願うがどうか?
「八紘一宇」や「鬼畜米英」、「一億総玉砕」などが掲げられた時代は愚挙だった。


 ところで、もはや「女」は容疑者か“もの扱いの差別的なニュアンス”とされる(「男」はまだ健在だ)。「痴呆」はまずいからと「認知症」と言い替えてから久しい(日本語の造語として私は今もってなじめない。「認知障がい」でしょう)。
 身体や身分、門地などをあげつらっての差別軽蔑の悪意に満ちたコトバは厳しく廃絶されるべきだが、中にはややコトバ狩りの場合がある。
 私の経験では教職員の不祥事が続いた時の臨時の県立学校校長会で、「腐ったリンゴは取り除かなければならない」といったところ、某校長から「問題発言だから取り消してほしい」と発言があった。
一瞬考えたがコトバの可否を議論しても時間がかかるので、「わかった。取り消そう」として収拾した。賛否を問うたら「補導すべき生徒を例えるのは問題だが、不祥事を起こした教職員対象は問題とは思わない」が大勢であった。


 「強くなければ生きられない。やさしくなければ生きる資格がない(バートランド・チャンドラー著「プレイバック」)はどうか?小説を離れて独り歩きした場合には「生きる資格がないとはどうしろということか?」で“微妙”か?
 コトバの遣い方は敏感になるとけっこう気にかかることがある。
食育では文部科学省が「食べる力」の導入を計画したが、島根県では「食べる知恵」にした。血流促進のために「時々足を伸ばしてあげる」、料理番組では「塩を一つまみ振ってあげる」。
こうした場合の「あげる」の言語的定着はおれが死んでからにしてくれ。                    (諒) 


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