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島根県中山間地域研究センター設立20年の感慨

島根県中山間地域研究センターが設立20年を迎えた。先日は記念講演会があった。会費制での祝賀会をやり、20年を振り返ってセンターのこれまでとこれからを共有したかったがそれがなく淋しい気がしたので、本稿で私が知る設立時のエピソードを書く。

こうしたエピソードは既に「定住財団20周年記念誌」に書いたし、昨年春、発足からの看板研究員だった藤山浩研究員が退職した時のスピーチでも話したので重複するがお許し願いたい。

中山間地域研究センター設立の発端は、中国地方知事会が設置していた中山間地域研究会(座長:北川泉島根大学教授)から、「5県共同設置の中山間地域振興の研究機関の設置」が提言されたことによる。それがちょうど平成7年春の統一地方選の直前だったこともあって、澄田知事が、赤来町での選挙演説で「中山間地域の研究機関を赤来町につくる」と公言されたと後でわかった。(これは県庁幹部職員と打ち合わせの上だったかどうかは聞き漏らした)

私は、7年4月企画調整課長を命じられた。選挙後の6月議会での所信表明を作成する協議で知事から、「僕言っちゃったんだよなぁ、、、」との発言があって「何を言われましたか?」と急かすが、なかなか言われない。やおら言われたのは「僕、赤来町に中山間地域研究センターを作ると言っちゃったんだよなぁ、、、」と“白状”された。知事の発言は重い。当然に“忖度”しなければならない。

所信表明に「赤来町への設置について検討を開始する」と書き込んだ。
伏線は、(1)振興すべき地域概念が「過疎地域」から、新しく「中山間地域」へと変わった時期だったことと、(2)農業試験場赤名試験地があってそろそろ改築の時期に差し掛かっていたことだ。

建物の建設は別途進めることとして、組織としてのセンターは農業試験場赤名試験地の建物内で設立することとし、企画調整課に専任職員(中西敏雅)を配置して準備に入った。そして、9年には、社会科学系の研究スタッフの採用にとりかかった。採用条件は「単なる大学などでの研究者ではなくフィールド調査やレポートの経験のある事」で年齢要件は50歳までとした。これは一般的な要件よりも年齢が高い。「なぜか?」と当時の副知事今岡さんから聞かれた。48歳だった私は、「誰も応募がなかったら私が応募して行きます」と答えた。今岡さんは苦笑いだった。幸いにいい人材が応募してきた。採用は当初2人。それが藤山浩と笠松浩樹だった。かくして10年4月に産声を上げることになった。いわゆるハードよりソフト先行である。

発足当初は、手探りでのスタートだったからアドバイスを得る「運営ブレーン会議」を設置した。委嘱したメンバーは、それまでの地域振興で培った人脈から選定した。おもしろいメンバーだったが20年経った今となっては当然にみんなが歳をとって“姥捨て山”に登った。

発足当初に私は藤山さんに言った。「5年間は徹底的に現場の状況を調査分析して欲しい。場合によっては茶碗酒を酌み交わしながら、とにかく現場の実態を掴め。政策提言をしたい気持ちがあるかもしれないが、それは長らく行政に関わって行政システムや財政を知った者からしても、そんなに易しいことではない。とにかく5年間は我慢して調査分析をしてほしい」

藤山さんは当時全国では誰も注目していなかったGIS(地図情報システム)をいち早く活用する手法を手にした。これは地域分析には非常に有効だった。
中国地方知事会や他の団体からの調査分析が次第に増えていった。

藤山さんは、知事が言う「中山間地域の研究を知りたかったら島根に来い」との気概に見事に応えてくれた。他県からの研究員の受け入れも実現した。

運よく(藤山さんにとっては運悪くか?)、私は16年に地域振興部長に就いた。ある報告を受ける場で、私は前述の「調査に専念しろ」と言ったことを引き合いに出して、「センターの評価をよくここまで高めてくれた」とねぎらい、「これからはドンドン政策提言もしてくれ」と提言の封を解いた。

建物の建設地についてふれる。当時の赤来町長安部さんから、そのころは草地開発した土地だった現在の場所を案内され視察した。面積、造成の難易度とも申し分なく、他の候補地とを比較することもなく現在地に決定した。

建設の担当部局は圃場や実験棟のことがあるので農林水産部とした。20世紀から21世紀に代わる頃だったが、幸いに財源として有利な「ミレニアム事業債」という県債を活用できた。「木造建築」が最初からの設計条件だったが、柱や梁などの小屋組みが県産材では揃わなかったのは残念だった。

竣工したのは平成14年10月。澄田知事に私は「立派な建物に負けない試験研究をしてくれたらいいですね」と声をかけた。建物竣工後の議会答弁でも「全国唯一の中山間地域を看板に掲げた研究機関だ。 “中山間地域の研究を知りたかったら島根に来い”との気概を持って、全国に誇れる研究機関となるような運営に努める」との知事答弁を幾度もしたためたはずだ。

式典に続く祝賀会は、山野草の花が会場を飾り、料理は宮脇さん(現:ミセス・ロビンフッド)がコーディネートした地元産品をふんだんに使った中山間地域研究の試験場開設にふさわしいものだった。

この中山間地域研究センターとともに理念を同じくする双子の兄弟のような関係で島根県の定住対策を担っているのが、ふるさと島根定住財団だ。二つの団体は島根の定住対策の車の両輪であり、それぞれが補完しあって活動してきた。

この間、県では議員提案での「中山間地域活性化条例」の制定と、それを受ける形での「集落100万円事業」を実施した。

藤山さんや中山間地域研究センターが提唱する「小さな拠点づくり」とも考えを同じにする発想で、私は財政課長として農林部の荒廃農地対策の要求を集落対策にねじ曲げて地域振興部に予算計上した。100万円事業は県内約1300集落で実施したから13億円を使った。島根にはもともと「新島根方式」として竹下内閣の1億創生のモデルにもなった昭和53年から58年までの集落振興ソフト事業の実績があった。また市町村振興室が所管した「住んで幸せ島根づくり事業(通称3S事業)」の、予算も大きいが成果も大きな取り組みがあった。100万円事業は、地域振興・中山間地域担当部局、農林水産部、中山間地域研究センターが連携して取り組む構図だった。

その功罪はどうであったかは皆さんの評価に委ねる。私の思いは打率3割(成功例3割)だったが、今、これを公に発言したらバッシングだろう。

もう時効だから言うが、センターの建物の建設が進み、新しく発足する時点の初代の所長に、もしかしたら私が就任していたかもしれない。結果的には私は浜田の総務事務所長に赴任したが、もし、センターの所長だったら藤山さんと良い同志関係を築いたのか犬猿の仲になっていたのか?皆さんはどちらだったと思われるか?

本稿は、きわめて個人的なエピソードだが、あえてこうしたことを書くのは、発足当時の設置の理念や気迫・気概を持続して欲しいと願うからだ。

中山間地域振興や定住対策、試験研究には息の長い取り組みが要る。だから、短絡的な費用対効果を問うのはあたらないと公言してきたし、信条ともしてきた。それを前提としながらも、一方では、常に「現場主義」と“討って出る改革改善の問題意識”が必要だとも思う。

20年の節目を迎えたこの時期、設立当初の初心をあらためて確認・共有し、過去を総括し、今後の展望を切り開いていく契機にしたい。その思いで書いた。

この稿と下記に添付した談論風発への寄稿は、私の中山間地域振興と中山間地域研究センターへの最期のメッセージだ。

2018.9.1 文責:藤原義光

 

(談論風発2018.8.26)中山間地域を按ずる~“農本主義”が活路では

「金を払っても作り手が得られなくなる」。昭和55年ごろにはこれを聞いても「まさか?」と半信半疑だった。実家の両親も近隣の家もまだ50歳過ぎの働き盛りで、大半が農業のかたわら「弁当産業」(建設工事作業員)で生計を立てていた。同級生などの多くが村を出て確かに後継者は少なくなっていたが切迫感はなかった。その理由は、私自身も別居とはいえ“通いの第2種兼業農家”を自認していたこともあって、「兼業農家は農村を維持するため日本の農業・農村が進化した有為な形態だ」と考えていたことがあった。

それから40年経ち、「借り手がいない」はまさに予想を超えた現実となった。「耕作放棄地というが放棄ではない。作りたいが自分ではもう限界だ。頼もうにも作り手がいない」のが実態だ。

「限界集落」というあまりよくない造語も生まれた。県都松江市から小一時間のわが生地もそれだから行く末を按ずる。元々、地区全体では80戸強あったが、今はほぼ半数、住民の多くがお年寄りで独居が多い。かつては門ごとに和牛がいて田起こしや代掻きの動力であり、繁殖元牛でもあった。そのころの学校は、田植え、稲刈りや村祭りでの欠席、早退は “公休”が 黙認だった。

確か昭和29年、村に耕運機第1号が入って以降、農業機械の導入は急速に進んだ。高度経済成長に伴う予算の伸びに併せ公共事業も大幅に増大し、兼業農家はその担い手として弁当産業に向かった。

今や、日本経済はかつての勢いを失い、公共事業は大幅に削減され、村は過疎で弁当産業も兼業農家も影がない。

みんなが貧しかった。貧しかったが不幸ではなかった。小さな川での魚釣り、公民館映画や村祭りの夜店の焼きまんじゅうやアセチレンガス灯の匂いが懐かしい。しかし、いくら懐かしんだところで何も解決しない。

島根県では過疎地域対策研究会を設置して今後の過疎地域のあり方を検討している。40年先はともかくとしても、場当たり的なお役所のご都合主義ではない将来を見通した哲学と理念のある展望を示して欲しい。

「農」は人が生きるために必要な食料を生産する活動だから、お金は結果的についてくるものだと考えて、“農本主義”で物事を組み立ててみてはどうか?農業も大事だが、農村を守ることがもっと大事だ。それが結果的には農業の基盤となり地域の生活や食を支える。島根県が平成11年から3か年で実施した集落維持活性化100万円事業もこうした考えだった。

ここでいう“農本主義”は「生命・生産・生活の“3つの生”の良好な関係」を評価する価値観であり、「集落営農などでのコニュニティーの維持」や「里山資本主義」「地産地消」「地域内循環」「半農半X」などをいう。「半農半X」は各家庭や集落経営での兼業農家を新しい理念で再構築した概念だ。

日本は人口減の時代となったが、地球規模では人口増加が続くし、食料や資源、エネルギー消費の増加も続く。それが近年の激しい異常気象をもたらす地球温暖化の要因となり、また、食料やエネルギーは有限だからその争奪戦や国境紛争も激化している。

近年の過酷な災害や農作物被害は、経済がグローバルな競争にさらされ、効率や利益を優先せざるを得なくなった要素も多分にある。

また、地方での公共事業は無駄だとして大幅に削減されたから河川や急傾斜地の災害予防工事は手が回らないし、災害復旧工事を担う建設業は重機も作業員も不足している。災害に備える国土強靭化には所要の予算とそれを担う地域人材がいる。

この“グローバル”な食料・エネルギー問題と “ローカル”な地域の維持活性化や災害対応を “農本主義”の 地域内循環などで取り組んだらどうだろう。こうした営みをする農村(地方)は“グローカル”な生き方の先進地であり、行(生)きたい所へターン(Iターン)する受け皿ともなる。

温故知新の“農本主義”は、地域経済の主力エンジンにはならないが、中山間地域振興の小口エンジンにはなり得ると思うがどうだろう。

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