でんどう

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「思いやり」と「心遣い」~篤い人情劣化の危惧

 「思いは見えないけれど思いやりは誰にでも見える」「こころは誰にも見えないけれどこころづかいは見える」。
宮沢章二「行為の意味」からの引用で、東北大震災の際、テレビで繰り返し繰り返し流された。被災者が避難場所で寒さとひもじさにもかかわらず混乱なく整然と秩序だって生きるその模様は全世界に報道され賞賛の的となった。役場の放送室に津波が押し寄せているのに、それを顧みず有線放送で避難を呼びかけ殉死した遠藤未希さんの悲しい犠牲もあった。

あれから5年。冒頭のコトバを深く心に刻んだ者はどれほどだろうか?

 当時から島根県は「ふるまい向上」を教育目標に掲げた。「ふるまい」が「あいさつやマナー、いじめをしない」などだという“コトバを理解する意味”ではかなり浸透した。それでは他人(ひと)を思いやる心、惻隠の情(弱い者をいたわる心)は良い方向に向かっているだろうか?

 この「他人の精神の機微や深いところを慮る(おもんばかる)こころ」は一般的には「篤い人情」という。それは感性の豊かさ(こころの豊かさ)を養わなければ得られない。付け焼刃で一朝一夕には身につかない。学校よりもむしろ家庭での育ちの中で自然と身につけるものだ。昔は、兄弟姉妹も多く、物質的には貧しい家庭環境が、けんかやものの取り合い、譲り合い、長幼の違いの認識などから獲得したものだ。大人も子どももが構成員の「世間」という“学校”もあった。

 何でもかんでもケータイ、スマートフォン(ゲームやラインでの“会話”)のせいにしてはいけないが、その出現・進化と連動するように、篤い人情は劣化しているし、さらなる劣化が心配だ。世の中が気ぜわしくなり、効率一辺倒やスピードばかりを要求することも要因だ。買い物や外食でも機械処理が多くなり会話は必要なくなった。 戦後民主主義の「個人の尊重」の子育てはジコチュウ(自己中心)を助長したし、社会の風潮を作った。今はその子世代が親となって子育てをしている。家庭の教育力が縮小コピーの繰り返しのように劣化(弱体化)するのを危惧する。

 家庭でしつけや教育を行なうための学習を「親学」という。「親学」は親になった世代に向けてでは効果が薄い。幼少年期から「ふるまい」を学ぶ中で、子育ての見本を見、肌感覚で自然と身につける能力だ。また、それは学校学力とは関連がない。

 人間に育てられたゴリラやチンパンジーは十分な子育てができないという。人は生まれながらに「人」ではない。社会的な学習によって生物学的な「ヒト」が社会学的な「人」になるのだ。さまざまな「教育の危機」がいわれるが、人間が最も人間たるゆえんのこの篤い人情の劣化が最も危惧される。「何とかしなければ」だ。

 そのためには、社会全体がもう少し“ゆとり”を取り戻し、「思いやり」と「心づかい」を共有実践することだ。家庭では前述した“ちょっと昔”を思い起こした生活、地域も“ちょっと昔の世間つきあい”を再生することだ。学校では道徳だけではなく国語や芸術科目、クラブ活動などで総合的に取り組むことだ。まずは、家庭や地域での会話を増やそう。買い物や外食、バス、タクシーでは、お金を支払う側も「ありがとう」を言ってみよう。「ふるまい向上」のステップ2として提案したい。

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