ТPPと道州制

 我が国文化の特質は、舶来文化を在来文化とうまく融合させ、同化してきたことだという。仏教が伝来した時には、古来の自然崇拝(アニミズム)と仏教文化をじっくりと絶妙に、高い精神文化に融合させてきた。神仏習合だ。
 戦後の「民主主義の導入」は急速かつ短期間に達成された。皮相的には、、、
しかし、近頃、民主主義とは一体何だったのだろうと強く思う。
 民主主義が正常に機能するためには、議論を深めれば最終的には意見の一致、または一致には至らないまでも消極的容認も含め、調整された結果は合意に至るという前提がある。単純に数を恃む問答無用の多数決主義ではないはずだ。それが危うい。民主主義は“幻想”にすぎないのかと思う。
いま述べたいことは、ТPPと道州制である。
 両者とも利害関係が分かれており議論がかみ合わないまま、弱い地域が切り捨てられ“民主的な多数決で” 同じ轍を踏んで決定される懸念がある。
ТPPでは山陰両県の農業・農村に深刻な影響があろう。賛成派からは、農業の国際競争力や成功事例が強調されるが、「ゴルフを始めれば皆が石川遼や宮里藍になれる」類の詭弁だ。経団連の会長は参加賛成の発言と同時に経済界としても日本の農業・農村を守る意思を強く発すべきである。なぜならそれが“美しい日本”たる我が国文化の礎だからだ。毛頭そんなもの守る気はないか?
例外品目に米などがあげられ、「貿易立国だから、まあ時の流れでしようがないか」程度の影響で済めばいいと、希望的観測ながら淡い期待を持つ。
 一方、道州制は違う。州都から離れた山陰は壊滅的ダメ―ジを受ける。「議論すればするほど反対論が強くなるから一気呵成に法案を強行すべし」との賛成派の意見がある。多数を占める政党がこぞって推進を掲げている。警戒警報発令だ。
道州制は道州集権だ。単に県庁がなくなり、地方行政が変わるだけではなく、地域の拠って立つ基盤や個性ある地域文化がなくなる。県社会福祉協議会も県商工会議所連合会も県○○会も県をエリアとする。県行政との「協働関係」にある。その存在基盤が州単位となれば喪失する。出張での来訪者も激減する。地方新聞やテレビも報道すべきローカルニュースがないから基盤を失う。
スポーツの県大会はどうする?国民体育大会のチーム編成は?スポーツや生活文化は共同体意識があってこそ盛り上がる。行政の枠組みと様々な文化の枠組みは別個なものではない。州政府の画一的な学校教育が均一化を一気に進める。教え込まれることの恐ろしさは日本の過去にも隣国にも見られる例のとおりだ。地域個性を失うのには30年とはかかるまい。
道州制では「おおむね30万から40万人の市で州を構成する」という。さらなる市町村合併が前提だ。県行政はその市に大半を移行し、残りは広島かどこかの州都に収斂される。その州政府は住民からは遠い存在で「地方行政」とはいえず、「道州分権」であっても「地方分権」とはいえない。第一、南海トラフ大地震などの災害に備える強い国土づくりに逆行する。
 総選挙では争点としなかった姑息な“選良”の多数決に従容と従い死を待つか、反対の烽火を上げるか、さあどうする?


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