「二者択一」の陥穽

 我が国文化の特質を語る時に、舶来文化を在来文化と融合させ、混然一体に同化してきたことがあげられる。仏教が伝来した時には、それまでの思想の排斥ではなく、古来の自然崇拝(アニミズム)と仏教文化をじっくりと絶妙に、高い精神文化に融合させてきた。
「山川草木悉有仏性」が好例の神仏習合だ。
 明治の近代化にあっては、急速、かつ短期間に、産業、行政、軍事や食べ物をはじめとする生活の全てにわたって洋風化した。
しかし、畳や食文化などの“良き伝統”は変えることなくしっかりと残した。

 仏教と同時期に伝来した漢字は、「コトバを記録する手段として」と同時に「新しい文化とそれを表現するコトバ」として取り入れた。 明治になっての西洋の物や文化の導入にあっては、漢字の「造語力」を遺憾なく発揮させて翻訳語に置き換えた。
「哲学、理性、公園」は西周(津和野町出身の哲学者)が作ったという(今のカタカナ語の氾濫とはえらい違いだ)。

 「民主主義」はどうだったか?戦後復興のなかで、軍国主義への反省や封建的な旧弊を排除する“絶対的に正しい制度”として急速かつ短期間に導入され定着した。皮相的には、、、
 民主主義が正常に機能するためには、議論を深めれば最終的には意見の一致(少なくとも消極的容認)に収束するという前提がある。その“幻想”があってはじめて成立する。
「あれか、これか」の二元論による数を恃む問答無用の多数決絶対主義ではない。いまその原則が危うい。いやむしろ戦後民主主義は「仏作って魂を入れ損なった」というべきか。

 集団的自衛権や憲法9条の問題、特定機密法、国会議員定数、教育委員会制度などについての「決める政治」では、国会審議も政党間協議もテレビのコメント者の論調も、すべてが自らの主張を繰り返し、相手方を非難する「賛成、反対」のどちらかで、双方の言い分を高所から調整・昇華(これには「止揚」という難語もある)するものはない。
 進める側は論点ぼかしで逃げきろうとし、反対勢力は大事小事の問題点・矛盾点をくりかえすだけで、議論は全く噛み合わない。マスコミもそれをなぞるだけだ。こうした決定方法(やり方)では、世界認識や世界観、思索・思想の切磋琢磨がなされず摩耗し強靭さを失い、空疎で薄っぺらな精神文化の国になってしまう。

 かつては、「いつも、足して2で割る」と揶揄されながらも“名調整役”をこなす政治家がいた。深い思索から本質を的確に捉え、「こうだ」と流れを一発(一言)で決める豪腕な政治家もいた。
 仏教伝来の古(いにしえ)から、新旧を同化させ、中庸を良しとしてきた美風からしたら、「ものごとの本質を究明し、絶妙に調整・昇華させることこそが日本文化だ」と為政者が賢人ならば気づいて良さそうなものだ。


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